PUNKROCK GAMER

やっぱり、ゲームの話をしよう

【コラム】ビデオゲームの美麗なグラフィックと「不可視レイヤー」の話

ゲームにおけるグラフィックと体験についての思考

――いつか現実と変わらないグラフィックと現実離れしたエフェクトで。

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グラフィックボードの高性能化と低コスト化によって、我々のゲーム体験は美麗なグラフィックと親密になっている。数万円出せば、息をのむほどのグラフィックを楽しめるグラフィックボードや高解像度モニターが買えるようになってきた。だからこそ、そうした技術への期待感の高まりも増しているように感じるし、PlayStation5の発売当初には高いスペックと手ごろな価格から、コンソールゲーマーの間で一気に沸き立った印象もある。良いことだと思った。

しかし、同時に私の中ではPlayStation4の時に感じた、パーティーチャットの手軽さから生じるゲーム体験の変化やシェア文化へのキャッチアップのような、ライフスタイルに迫るようなピタッと感はない。それどころか、「美麗なグラフィックを楽しめるようになりました」とだけ告げられている気がしている。

新たな家庭用ゲーム機が出るということはそれまでのハードとの別れが近いということになるのだが、その必要性を強く感じられないのは私だけだろうか。

もし、グラフィック描画性能だけで見るなら、確かにPS5がPS4を凌駕しているだろう。だが、開発者はその進化に付いていけているのか。私はグラフィックの進化とゲーム体験の向上は必ずしも一致しないと考える。そうでなければ、『Undertale』や『Stardew Valley』のような、ドット絵のゲームがあれほど高い評価を得てはならない。また、開発者自身がゲームグラフィックをどう捉えているのか、ということも気になる。

 

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PCゲームプラットフォーム向けにゲームを開発しているデベロッパーは最低限のスペックというものは意識するものの、それ以上の描画性能についてはユーザーによって搭載しているグラフィックボードやCPUがバラバラなので、目安程度にしか考えていないという印象がある。もちろん、各メーカーからサポートを受けているデベロッパーの場合、プロモーションも兼ねて最新のグラフィックボードを搭載した場合のゲーム画面というのをアナウンスすることもあるが、いずれにしても全てのユーザーのグラフィック性能が基本的には横ばいである、家庭用ゲーム機シーンとはちょっと事情が違う。あるいは、現在はゲームエンジン側の進歩もあり、PCプラットフォームだろうが、コンソールだろうが、同一のコードで動くようにエンジン側が働いてくれるので、そうした境目はあいまいになりつつある。けれども、PCと家庭用ゲーム機を比較した際に、カスタマイズ性は圧倒的にPCの方が上だ。

だからこそ、家庭用ゲーム機のユーザーはグラフィック性能の進化に敏感なのかもしれない。そうした事情はたしかに頷けるし、絶対に間違っていない。

けれど、美麗なグラフィックになればなるほど、そこに虚構が透けて見える気がするのだ。決してそれが悪いというわけではない。けれど、「現実っぽい」グラフィックになるほど、現実の景色との僅かな違いを見つけようとする、嫌なところが私にはある。
ゲーム内のあまりにも澄んだ青空や、あまりも大きな桜の木がゲームに映っていたりすると、より色濃く虚構を感じてしまう。

そして、そこにある美麗なグラフィックはゲーム内の景色の美しさを想像する余地を丁寧に取り除いてくれている。想像しなくても、想像よりも美しい景色を与えてくれているのだ。そういう風にして、景色の美しさをゲーム側がきめ細やかに説明してくれるもんだから、私は与えられた美しさを楽しむだけで満ち足りている気分になる。そう、自らのめり込まなくても、のめり込んだ気分にさせてくれる。まるで、美しい景色に感動を覚える自分の感性が鋭いという気にさせてくれる。しかも手軽に。

 

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我々自身の感情を媒体にしていた「不可視レイヤー」の存在

 

念のため述べておくが、私は美麗なグラフィックを否定しない。むしろ、大好きだ。広い平原を歩いたり、走ったりしている瞬間は本当に楽しい。しかし、私がそうしたゲームのことが好きな理由はグラフィックが美しいから、だけではない。私はゲームを遊んでいるときの私自身の体験を言葉にする習慣や能力を持っている。そして、誰に見せるでもない3000文字ほどの「自分用ブログ」に日々、そうした出来事を執筆している。そうすることで、能動的に美麗なグラフィックを探求していけるし、記憶に残る残像にさえ愛着が湧く。そうしたウェットな感触がとても好きなのだ。

一昔前に主流だったドット絵(ピクセル)の場合、主人公がヒロインとロマンチックなシーンの中にいるとき、視線の先にヒロインがいるのか、それとも照れ隠しで海の方を見ているのか、そうした情報をセリフや間(ま)から読み解く必要があった。そんなことを考えていたゲーマーは当時から少なった可能性もあるが、私は今でもそういう風に考える。一応、念押ししておくが、現在でもドット絵のゲームはたくさんあるし、時代遅れと言いたいわけではない。本稿のテーマがフォトリアルな美麗なグラフィックであるため、対比として記述する次第だ。事実、一昔前(20年ほど前)には今ほどのフォトリアルなグラフィックは存在しなかった。

私はゲームには、プレイヤーの捉え方によって変化が異なる、「感じ方のレイヤー」が存在することを知っている(映画や小説、音楽でも同様だ)。
つまり、グラフィックやテキスト、サウンドといった「存在が証明されているレイヤー」と、グラフィックやテキストで描かれていない、「存在が証明されていないレイヤー」とも言える。ここでは、それらを「可視レイヤー」と「非可視レイヤー」と言い表してみる。
「可視レイヤー」は誰が見ても、聞いても変わらない情報を指す。例えば、数値や文字数などディジタルデータとして存在しているものだ。
「非可視レイヤー」はもっとウェットなものだ。空間に漂う感情や気配、緊張が画面から染み出してくるようなもの。他者に伝えようとしても、上手く伝えらないような(伝えるまでもないと思える)自分の中に発生した感情のこと。きっと「可視レイヤー」で描き切れていないからこそ、プレイヤーが思考する余地が発生していたのだ。

本来、「非可視レイヤー」はプレイヤーの見方次第でどこまででも探求できるものだった。そして、「非可視レイヤー」はいつだって、「可視レイヤー」にピッタリ重なり合っていたのだが、美麗なグラフィックはそれを許そうとしなくなっている。

本来、哀愁や悲哀、歓喜や憤怒など、感情が揺れ動くシーンでは「可視レイヤー」と「非可視レイヤー」に歪みが生じていた。緊張や不安、愛、といった人の感情を媒体とする不確定要素はドット絵で描き切れていなかった。そして、そこにプレイヤーが読み解く余地が生まれているのだ。
けれど、美麗なグラフィックはそうした感情の微妙な動きさえも表現できるようになった。手の握りや眉の微妙な動き、声優の見事な演技によって、私がわざわざ読み解かなくても用意は整っている。

ドット絵の場合、現在と比較して、キャラクターの表情のパターンは少なく、手や腕の動きだって大きくもないし、逆に小さく、細かくもない。おまけにFCやSFCサウンド(和音)にも限界があった。また、メモリの関係で一度に描き切れるオブジェクトや読み込みの限界だってあっただろう。
つまり、当時のゲーマーが該当のシーンに行き着くまでに、人生でなにを感じ、なにを知っていたのかという、ゲーマー自身の人間性に呼応する形でしか「非可視レイヤー」の存在を確認できなかったはずだ。事実、当時小学生の私が『ファイナルファンタジー6』をプレイして感じたものと、大人になって同作をプレイして感じたものはまるで違う。
より多くの人々と触れあい、友情や愛を育み、人並み程度の恋愛をしてきたことによって、シーンの見え方に大きな違いを見せていた。

美麗なグラフィックになると、「可視レイヤー」が主人公やヒロインの微妙な表情まできめ細やかに描いてくれる。そして、その主人公やヒロインは私とは異なる、切ない表情をしている。そこで、無意識的であろうと意識的であろうと、プレイヤーとキャラクターの同一性は失われていってもおかしくはない。仮に自分の名前を付けた主人公であっても、そこにいるのは絶対に自分ができない表情をしている誰かになる。その状態を楽しむには、私の感じ方や言語能力などの一切を捨てて、主人公になりきるしかない。私がゲームに合わせていく方法がいい。

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そして、追い打ちをかけるように、「言葉のレンタル」が始まった。

「非可視レイヤー」とは、それまでのゲーマー自身の生き方によって変化が生じる感じ方であることを上述してきた。
そして、我々はゲームをプレイして、誰かに「このシーンはどう感じたのか」と説明したり、発表する必要なんて本来なかったはずだ。
しかし、現在はSNSYouTubeなどで、それを発信することで承認欲求を満たしたり、お金がもらえるようになる時代だ。
それ自体は絶対に否定しない。けれども、より多くの人々の共感を得た人間のもとに、より多くの支持が集まるシステムができあがった。フォロー/フォロワーである。それは、支持数を具体的に数値として表すことで生まれた、人間の「可視レイヤー」に他ならない。そう、実は「可視レイヤー」と「非可視レイヤー」はゲームの中だけの話ではない。現実にもある。
そして、より多くの共感を得た言葉はフォロワーの「非可視レイヤー」の見え方に影響を与えている印象がある。
つまり、あなたがフォローしているインフルエンサーの「ゲーム評」に関心してしまえば、あなたの感じ方もそうなっていく。なぜなら、「不可視レイヤー」とはその人自身の考え方によって変化する微生物のようなものだからだ。
あなたがインフルエンサーの言葉に共感したということは、今後あなたはインフルエンサーに影響を受けた言葉によってゲームを感じるようになるかもしれない。なぜなら、共感を生み出すことを目的に発せられた言葉は高速に情報が行き来するプラットフォームと相性がよく、あなたの言葉で時間をかけて思考する必要を奪うからだ。あなたが思考する必要はなく、インフルエンサーの言葉に共感して、それを支持すれば、それはそっくりそのまま、あなたの考え方にできる。手っ取り早いうえに、多数派に回ることができるのだから、すぐに満たされた気分になるだろう。言葉をレンタルすることで、一気に自分も多くの人々の共感を集めた、あのインフルエンサーと肩を並べた気分になる。それにハマると、「それっぽいこと」を言っているけれども、中身がない集団ができあがる。
SNSとは多くの人々が思っているよりも、はるかに高速で、膨大な共感を生み出す装置になっている。一度、外から眺めてみるといいだろう(もし、それが可能なら)。ゲーム内のNPCのように限られたパターンで言葉を話している人々の姿が見えるかもしれない。

全く誰にも影響されずに生きることなんて有り得ない。私たちは親や親せき、育ててくれた誰かの言葉に影響されて生きている。けれど、私の親は共感を目的に、あるいは「可視レイヤー」なんていうものを見据えて、私に言葉を教えてくれたわけではない。
また、私は本稿をそうした、まやかしのために執筆したわけではない。そして、この4500文字を超える記事は誰の言葉を借りていない。そして、私はプライベートでSNSを使っていないため、承認欲求に駆られたわけでもない。
そして、その理由を本稿に分かりやすく記述することもない。言葉というものにも「不可視レイヤー」はある。

疑問や不安というのはいつも穴が開いている。共感とはその穴にハマる杭のようなものだ。すっぽりハマると心地よい。
問題はその杭は誰が用意したものか、ということだ。

 

 

 

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