PUNKROCK GAMER

やっぱり、ゲームの話をしよう

善悪の判断を他者に委ねることの「ダサさ」について話をしよう。

物事の善悪、ゲーム、SNS、借り物の言葉と感性について

――あなたと僕の世界で起きていることは必ずしも一緒ではない

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どこかのゲーム規制法案、またはゲーム依存に関する論文など、なんだかテレビゲームが色々物議を醸している昨今。私は自分が反対だと思うことに対して、自分の頭で考えて、自分でアクションを起こしている全ての人間に対して拍手を送りたい。自分なりのアクションを起こす、ということは本当に素敵だと思う。

最初に述べておこう。私はゲームが規制されようが、なんだろうが、自分にとって遊ぶ理由があれば、ゲームをやる。そこに他者が入る余地はない。音楽も、自転車も、毎朝飲むコーヒーにも他者の意見を求めていない。私は規制法案や論文に反対するためにゲームというメディアに集まったわけではないし、今後も集まらない。世間体を気にしながらゲームを遊んだこともない。

ゲーム規制やゲーム依存について、TwitterSNSでなんとなく概要を知り、ゲームが否定されていると感じて、反射的に態度を示したくなる人々の気持ちも分かる。きっと腹が立っただろうし、悔しかったことだろう。
けれど、私が気持ち悪いと思うことがある。それは、「それっぽい」意見を一日中ツイートしているTwitterアカウントや、フォロワー数が多い「謎のインフルエンサー」の発言に乗っかった発言をすることだ。
SNS上で目立つ多数派の意見、あるいは、グローバルスタンダードと思われる側の意見をRTしたり、加勢する人々はきっと、そうすることで自分の意見を持った気がするのだろう。そして、そうすることで世界に触れている気がして、安心するのだろう。私には彼らが触れているのは世界ではなく、スマートフォンの画面にしか見えないがどうだろう。

まず、私は上述のテーマについて、自分の脳みそで考えようとしない人々は善悪の判断を他者に委ねているのだと考える。なにが問題なのか、なにが嫌なのか、ということを熟考せず、誰かの好き嫌いを借りているのだ。そして、そこで借りた感性や言葉を反射的にツイートすることにあまりにも慣れ過ぎている。これは私に言わせればダサいのだが、もし彼らにとってそれが紛れもなくカッコいいことならば、これ以上それを否定するつもりはない。

私の物事の善悪の基準は法案にも論文にも載っていないのだが、あなたはどうだろう。いつの間にか、テレビ、ラジオ、YouTubeSNSなどで多数派側が語った言葉を借りて、自分の意見にしていないだろうか。そうした借り物の言葉はたくさんの人が使っているから、きっと安心するだろう。けれど、それに慣れてしまうと、段々人は同じものになっていく。統合され、考え方や感じ方も似通ってしまう。私は紛れもなく今のSNSがそれに見える。

もし、多数派の意見に染まっていることを不安に思っている人がいるなら、こちらのライブ映像をおすすめしておく。もし、あなたがそれを観ても退屈ならば、きっと私とあなたの世界の見え方は違う。だが、それは別に悪いことではないし、私が社会にとって正しい人間であるということではない。
当然、私にとってそんなことは重要ではないのだけれど。

 

youtu.be

以下、サビの日本語訳。

――お前は明日どうするつもりだ?お前はリーダーなのか、それとも従うのか。お前は戦うのか、それとも黙っているだけか。今こそ力を取り戻す時だろ。