Passafireを聞いて普段の散歩道をストリートにする遊び
Passafireとストリート、遊び方を貪る側と見出す側
――面白いことの消費者と探求者の違い
今年もPassafireが不意に聞きたくなるような、ポカポカな季節がやってきつつある。今日は昼前から近所を散歩して、桜の木を眺めたり、満潮を迎えつつある川を見送ったり、定食屋の活気の横を通って、家にたどり着いた。
私は自分が今日歩いてきた道を世界一「良い感じ」に散歩していた自信がある。それが他者にとって何の価値もないことくらい理解しているが、私にとっては他者が自分に感じる価値に興味がない。
面白いことを自分で見つけ出し、実際にそこに面白さを感じているならば、非常に創造的な遊びなのだ。私にって散歩とは、季節や気候を使ったストリート遊びである。ストリートと聞くと、もっと気合の入ったパンクスやヒップホップ界隈の人々が集う、エリアやクラブの周囲のことをイメージするかも知れないが、私は他者が決めた遊び方に従うことほどつまらないものはないと思っている。
例えば、そこに面白いことがたくさん集まっていたとしても、それは用意されたものを消費しているに過ぎない。なにもないところから、始める面白さがまるでない。私の近所に見えるストリート的な遊び心は私だけが開発しているし、独占できる。おまけに、「それはストリートじゃねえよ」などという威張った先輩方も現れない。
これはゲームの遊び方にも言える。ゲームというのは遊び方を与えられているものだが、そこで満足することになれると一生、「貪り続ける側」になってしまう。
微弱に振動している公園のブランコや、近所の駄菓子屋のサビたシャッター、やたら切り替えが早い信号機、そういった景色を収集しておくと楽しみが増えていく。
SELF MADE !!