PUNKROCK GAMER

やっぱり、ゲームの話をしよう

朝の散歩、贅沢、他者への説明、Sublimeの『Santeria』の話をしよう

誰にだって憂鬱な朝は来るが、Sublimeを聞きながら散歩をする僕の贅沢は誰も知らない

――人生はあまりにも短い。

あなたは人生の中で赤の他人にいきなり、あなたの全てを肯定されたことはあるだろうか。私にはある。しかも、二回も。

一回目はGreendayの『Basket Case』を聞いたときだ。この話は気分が乗れば、また後日書いてみる。本稿では二回目に肯定された話をする。Sublimeの『Santeria』を聞いたときだ。

私は自己肯定感の低い少年時代を過ごした。家庭は荒んでいたし、何をやっても上手くいかない私は社会からも痛めつけられた最低の気分を毎日更新していた。

19歳の頃、私はSublimeの『Santeria』という曲に出会い、脳天に雷が落ちるほど励まされた。リリックは支離滅裂と言えばそうだが、この曲のサビにはこういう歌詞がある。

――本当に知りたいことや、本当に言いたいことに限って上手く言葉にできないんだ。でもね、俺に必要なのは愛なんだよ。

youtu.be

 

この曲はSublimeがメジャーデビューを予定し、リリースされたアルバム『Sublime(セルフタイトル)』に収録されている。けれど、ヴォーカルのBradはその直前にオーヴァードーズで死んでしまった。

私は彼のことが大好きだし、私のような人間のことを肯定してくれたことを感謝している。

時々、朝の散歩で彼らの曲を聞きながら公園をぶらぶらするとき、とても幸せな気持ちになる。しかし、それはきっとごく限られた人間しか感じることのできない贅沢だ。なぜなら、「Sublimeめっちゃ好きなんです!」という日本人に出会ったことがないし、僕のように散歩のテーマソングとして起用している人間はいないだろう。

youtu.be

 

私の朝の散歩の様子やその日感じたことを逐一、SNSYouTubeなんかにアップしたことはない。私にはそれがとても下品に思えるし、自分にとっての贅沢を他者とのコミュニケーションツールとして利用することが、なんだか気味悪い。例えば、から揚げにマヨネーズをかける人がいて、その食べ方をあーだこーだ言う人がいるとして、そうした両者のやり取りを第三者が見ている。という交流はどう考えても気持ちが悪い。

私は自分が読みたい記事をこのブログに投稿することに決めた。誰のためでもなく、私のために。これが、ライフスタイルなのか、オピニオンなのか、雑記なのか分からない。けれど、例えばアウトドア雑誌『GO OUT』の最後の方にある放浪記的な、つかみどころがあまりない文章が一番面白かったりする。あのような文章を読んで、ニヤリとする時間がとても贅沢なのだ。

私が『Santeria』の歌詞のように、時々グッとくる言葉や芯を捉えた感触のある表現が好きなことを他者に説明するのは困難だ。そんな私をSublimeというバンドは肯定してくれる。言葉というのは、行動の源であるくせに、その自覚を人間に与えようとはしない。だからこそ、音楽という振動の連続に言葉が乗ることで、あたかもそれがごく自然なことのように、または自分自身の力でそれに気づいたかのように、我々は言葉の何たるかを自覚させられる。そうしたことを散歩の道中に気づいて幸せな気分になる。けれど、わざわざ、それを他者に理解してもらおうとするのは身勝手なことだ。そして、そんな必要もない。

もし、私がそうであったように肩身の狭い思いをしているゲーマーがいれば、他者との交流のために自分の好きなことを利用するのを辞めてみると状況は好転するかもしれない。それは他者との交流を諦めろということではない。コミュニケーションの速度が高まり過ぎたこの時代において、自分の好きなことが他者に認められなければ、きっと自分自身を否定されたような気分になってしまう。その根本的な原因は他者に自分の好きなことの理解を迫ったことにあるのだけれど、そこで覚えた無念を高速道路で叫んだところで、誰の耳にも届かない。けれど、あなたがその言葉を持っていること自体に意味があることを私は知っているし、一応、肯定してみたい。

 

もし、あなたがゲーマーで、これらの曲を聞いて、脳天に雷が落ちたら教えてほしい。仲良くなれるかどうか分からないけれど、「Long Beach Dub Allstarsというバンドを聞いてごらん」という助言はできると思う。

 

youtu.be

 

――どうか愛が返ってきますように。